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2007年5月29日 (火)

眼力

子供の頃から映画は好きだったけど、のめり込むきっかけになったのは黒澤明の「椿三十郎」だった。そこからそれまでの映画の見方よりは、一歩踏み込んで自分の在り方などとの関連を考えながら観るようになった気がする。高校の近くにあった名画座で、確か西部劇ともう一本も洋画のスパイもの、みたいな無茶苦茶な組み合わだった。放課後3本続けて観て、「椿三十郎」が最後の上映。終わった時には10時頃になっていた。モノクロの時代劇。娯楽作に徹底している作品。でも強烈な余韻にしばらく動けなかった。シネスコ・サイズの画面一杯に広がる絵自体に圧倒されたのだ。後の二本の洋画の印象は全くと言って良いほど飛んでしまっていた。
最近昔の映画をレンタルで借りてきて時々観る。うちにはテレビがないしヴィデオのデッキも持っていなかったのでずっとそういうものとは無縁だったが、DVDの時代になってからはマックで観れるようになった。マックの小さな画面で観るのには派手な大作よりはテンポがゆったりとした余裕もあるものが良い。歳のせいもあるかも。昭和30年代頃の映画。そう言えば10年以上前から中国映画に注目してきたけど、僕がそこに感じたものは、昭和の日本映画にあったものと酷似ていたからだ。
先日中村錦之助(キンノスケを変換できない、昭和の大スターの名前ぐらい知っていて欲しいものだ)主演の「宮本武蔵」を借りてきた。内田吐夢監督作品(内田吐夢は一発で変換できた。変なの)若い頃は黒澤映画のダイナミックでリアルな演出が好みだったので、中村錦之助はあまり好きな俳優ではなかった。三船が一番、後は仲代か勝新といった感じ。会社としても東宝。大映の作品に比べて東映、日活、松竹、の作品は少し迫力が落ちるなんて勝手に捉えていた。でも最近観た「柳生一族の陰謀」や「待ち伏せ」で中村錦之助の凄さを強く感じた。それで「宮本武蔵」。
この人の眼の力が凄い。役に入っていない時の彼の顔は意外と平凡で、悪いけど大スターには見えにくいけど、ひとたび役に入り込むと眼が全然違う。役の持つ力と本人の力が渾然一体となって凄い存在感を醸し出している。役を作る、といった感じではなくて、自分の持っているものを押し出して役の形にしてしまっている感じがするのだ。それを一番表現しているのが眼の力。
同じことを自分の立場で考えてみた時、彼の眼の力に相当するものは、声の質であり、楽器の音色だろう。だけどその土台の部分に力のある演奏は少ない。俳優で言えば役をなぞるだけ、音でいえばフレーズを並べてみせるだけの演奏が多い。形になって見えるモノの向こう側はスカスカ。強烈なその人自身の存在感が押し寄せてくるような演奏は観られない。
昔は良かった、みたいな話になって、自分が歳をとった気分になるが、昔は設備的には劣っていても、それを凌駕するそれぞれの人の存在感はもっと際立っていた。
僕はそういうモノへの憧れが強い。ボサ・ノヴァに憧れを持ったのも、その斬新なサウンドはもちろんだが、それぞれのアーティストの存在感が色濃く出ていて、そこに魅力を感じた。だから今のコンピレーションばかりたくさん作っている風潮は嫌いだ。もっと、顔、の見える形の演奏を大切にして欲しい。そのせいで昨今の顔のない演奏の方が大手を振っているような事が起こるのだろう。僕は華麗なフレーズより、一つ一つの音に存在感のある演奏がしたい。

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